2010年にフリーランスになって以来、ICT関連の仕事を行うかたわらで教育にまつわる仕事やボランティア活動を行ってきた。その中で強く感じたのは、教育活動が目指しているものと社会が求めているもののグロテスクな乖離だった。このことについて、二つの側面から論じる。
誤った教化
現在の公立学校においては「目標に準拠した評価」が採用されている。文部科学省のホームページにおいて丁寧に(そしてわかりずらく)説明されているが、かいつまんで話せば、テストで100点を取っただけでは高い評価が得られないということになっている。
この評価自体は良いだろう。しかし、その場合においては達成度測定以外の評価項目がどのように規定されているのかがポイントとなり、私が見る限りこれが上手く機能しているとは到底言い難い。
現在、学習評価の観点として 1.知識・理解、2.技能、3.思考・判断・表現、4.関心・意欲・態度の4つが設定されている。特に疑問視しているのは、4.関心・意欲・態度の具体的判断基準として、往々にして「授業中の発表回数やノートの提出回数、忘れ物の有無」などの定量的データに基づいて評価されている点だ。
4つの観点について、生徒児童を主語として考えれば意図は明白で、1および2が教化された知見、それに基づきアウトプットする能力が3、そしてそれら全てを推し進めていくための内燃機関が4である。当たり前だが、これはノートの提出回数や発表回数などで定量的に測定できるものではない。
困ったことに、この定量的な具体的判断基準は、生徒児童に対し困った結果を招く。すなわち、「関心・意欲・態度」という評価基軸の設定が意図しているものとは逆の、「質はともかく、やってさえいれば良い」という誤った教化をしてしまうのた。
なお、この点は文部科学省も問題視しており、中教審の初等中等教育分科会においても学習評価の在り方として以下のような提言がなされている。
現在の「関心・意欲・態度」の評価に関しては、例えば、正しいノートの取り方や挙手の回数をもって評価するなど、本来の趣旨とは異なる表面的な評価が行われているとの指摘もある。「主体的に学習に取り組む態度」については、このような表面的な形式を評価するのではなく、2.(3)2.3)に示した「主体的な学び」の意義も踏まえつつ、子供たちが学びの見通しを持って、粘り強く取り組み、自らの学習活動を振り返って次につなげるという、主体的な学びの過程の実現に向かっているかどうかという観点から、学習内容に対する子供たちの関心・意欲・態度等を見取り、評価していくことが必要である。こうした姿を見取るためには、子供たちが主体的に学習に取り組む場面を設定していく必要があり、「アクティブ・ラーニング」の視点からの学習・指導方法の改善が欠かせない。また、学校全体で評価の改善に組織的に取り組む体制づくりも必要となる。
求められる人材との乖離
社会に今求められているのはどのような人間か。 この問いに対する明確な答えについては、私も持ち合わせていない。しかし、2013年オックスフォード大学マイケル・オズボーン准教授が発表した”THE FUTURE OF EMPOYMENT : HOW SUSCEPTIBLE ARE JOBS TO COMPUTERISATION ?”、ならびに2015年野村総合研究所が発表した「日本の労働人口の49%が人工知能やロボット等で代替可能に」を見るまでもなく、近未来において単純労働がAIやロボットに代替されていくことは、マクロな観点からは合理的な未来予測だ。
さて、そのような未来において、果たして「とにかく、やってさえいれば良い」というような人材がどれだけ必要とされるだろうか。そのような態度で臨む人材に任せるくらいなら、AIやロボットに代替させてしまおうというのが合理的な判断にならないだろうか。
また、全世界で生成されるデータ量の爆発的な増加も重要な観点だ。2015年時点で存在しているデータの90%が、2013年からの2年間で生成されたものであり、この量は40%/年という凄まじいスピードで増加している。
IDC Janpanの報告によれば、2025年には2016年比で約10倍の163兆ギガバイト(163ZB)規模まで増加する。この大量な情報の中から意味あるデータを抽出するための技法として、データマイニングなる分野も急速に成長している。 これと平仄を合わせる形でデジタル情報端末の進化も速く、現代において既に情報アクセシビリティは「望めばいつでもアクセスできる」レベルに達している。
しかし、このような情報化社会に学校教育が対応しているのかといえば、それは甚だ疑問だ。 もちろん、知識はこれからの社会においても不要にはならないと考える。しかし、これだけの情報インフラが整備された現代においては、単純知識の暗記は急速に重要度が低下している。その反面で重要度が増しているのは、正しい情報にアクセスする能力(情報リテラシー)と、取得した情報を正しく利用する能力だろう。
なぜ今アクティブラーニングなのか
前述の野村総合研究所記事では、将来においても人が担う業務について、以下の通り記述されている。
芸術、歴史学・考古学、哲学・神学など抽象的な概念を整理・創出するための知識が要求される職業、他者との協調や、他者の理解、説得、ネゴシエーション、サービス志向性が求められる職業は、人工知能等での代替は難しい傾向があります。
すなわち、「概念を整理・創出するための知識」および「他者の理解、説得、ネゴシエーション、サービス志向性」。これこそが、現代の教育に期待される大きなミッションである。
その際に必要となるのは、教育現場における学習者の主体性と、学習者同士がコミュニケーションを通じて理解・説得・ネゴシエーションのプロセスを体験し教化されていく仕組みづくりであり、これを担うのがアクティブラーニングである。以上の通り「なぜ今アクティブラーニングなのか」の答えは明白で、それは「今後はアクティブラーニングによって能力を育まれた人間しか生き残っていけない」からだ。